【事例解説】AI開発と営業秘密侵害リスク - 学習データ・モデルの保護と利用の境界線
導入
近年、人工知能(AI)の開発・利用が急速に進んでいます。多くの企業がAI技術をビジネスに取り入れる中で、その開発プロセスや基盤となる情報資産、特に「AI学習データ」や「学習済みモデル」を巡る知的財産、中でも営業秘密に関する問題が顕在化しつつあります。これらの情報資産が営業秘密として保護されるのか、また、これらの情報が不正に利用された場合にどのような法的問題が生じるのかは、技術開発者だけでなく、企業の経営層、そしてこの分野に関心を持つ法学部・経営学部の学生にとって重要なテーマです。
本記事では、AI開発におけるAI学習データや学習済みモデルが営業秘密として保護される可能性、およびそれらの不正な取得や利用が不正競争行為となりうるのかという法的な論点を、想定される事例シナリオに沿って解説します。現時点では、この分野に関する確立した裁判例は多くありませんが、既存の不正競争防止法の考え方を適用した場合にどのような点が争点となりうるかを考察し、企業が取るべき対策や学生が学ぶべき点について示唆を提供します。
事案の経緯(想定されるシナリオ)
企業Aは、自社が長年蓄積してきた大量の顧客購買履歴データ、製品開発に関する実験データ、製造プロセスデータなどの機密情報を用いて、高性能な需要予測AIモデルを開発しました。これらのデータは社内システムで厳重に管理され、アクセス権限も限定されていました。
しかし、このAI開発プロジェクトに関与していた元従業員Bが、退職時に不正な方法でこれらの学習データの一部や、学習済みモデルのパラメータ情報を記録したファイルを外部に持ち出したことが発覚しました。元従業員Bは、競業他社である企業Cに転職後、持ち出したデータやモデル情報を利用して、企業AのAIモデルと類似した機能を持つシステムを開発・提供しようとしています。
企業Aは、元従業員Bの行為および企業Cの行為が、自社の営業秘密を侵害する不正競争行為に当たると主張し、法的措置を検討しています。
法的な争点
本事例シナリオにおいて、主に不正競争防止法(不正競争防止法)上の営業秘密侵害が争点となります。具体的には、以下の点が法的に問われることになります。
- AI学習データおよび学習済みモデルは営業秘密に該当するか
- 不正競争防止法第2条第6項は、営業秘密を「秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの」と定義しています。この定義における「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3つの要件を、AI学習データや学習済みモデルが満たすかが問われます。
- 秘密管理性: 大量のデータやモデル情報に対し、企業Aがどのようなアクセス制限、パスワード管理、持ち出し制限などの措置を講じていたかが問われます。特に、分散開発環境やクラウドストレージを利用している場合、物理的な場所によらない管理措置が適切に行われていたかが重要になります。データ集合体全体としての秘密管理性や、個々のデータ項目の秘密管理性も論点となりえます。学習済みモデルについても、モデルファイルへのアクセス制限や、パラメータを秘匿するための措置などが問われます。
- 有用性: 顧客データによる需要予測、実験データによる製品開発、製造プロセスデータによる効率化など、これらのデータやそれによって開発されたAIモデルが、企業Aの事業活動において客観的に見て有益な情報であるかが問われます。特定の成果に結びついていることや、将来的な活用可能性なども評価されます。
- 非公知性: これらのデータやモデル情報が、企業Aの社外で一般に入手可能な情報であったかが問われます。公開されている統計データや、特許公報、学術論文などから容易に知り得た情報でないことが必要です。学習データの場合、特定の個人情報が含まれるかどうかも非公知性の判断に影響する可能性があります。学習済みモデルの場合、モデルの構造やパラメータが公開されていないかが問われますが、モデルの出力結果のみでは非公知性が認められにくい可能性があります。
- 不正競争防止法第2条第6項は、営業秘密を「秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの」と定義しています。この定義における「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3つの要件を、AI学習データや学習済みモデルが満たすかが問われます。
- 元従業員Bの行為は「不正取得」に該当するか
- 元従業員Bが、企業Aの許可なく、または不正な手段(例:アクセス権限の濫用、セキュリティを回避する方法など)で学習データやモデル情報を入手した場合、不正競争防止法上の「営業秘密を取得する行為」(同2条1項4号、5号など)に該当するかが問われます。
- 元従業員Bおよび企業Cの行為は「不正使用」に該当するか
- 元従業員Bが持ち出した学習データやモデル情報を、転職先の企業Cで利用する行為が、「営業秘密を使用する行為」(同2条1項7号、8号など)に該当するかが問われます。AI開発における「使用」とは具体的に何を指すのかが論点となります。学習データを用いて別のモデルを開発する行為、学習済みモデルを自社サービスに組み込む行為、あるいは学習済みモデルから元の学習データに含まれる情報を推測・再現する行為などが「使用」に当たるかどうかが議論される可能性があります。
- 企業Cが、元従業員Bが不正に持ち出した情報であることを知りながら(または知ることができたにもかかわらず)、これを利用した場合、企業Cの行為も不正競争行為(同2条1項7号、8号)となりえます。企業Cが、元従業員Bから提供された情報が不正に持ち出されたものであることを認識していたかどうかが争点となります。
関連法規の解説
本事例シナリオの中心となるのは不正競争防止法です。特に以下の条文が重要となります。
- 第2条第1項第4号~第10号: 営業秘密に係る不正競争行為を定義しています。これらの条文により、営業秘密の「取得」「使用」「開示」などの行為が、一定の条件下で不正競争行為として差し止め請求や損害賠償請求の対象となります。
- 第4号: 窃盗、詐欺、強迫その他の不正の手段により営業秘密を取得する行為
- 第5号: その営業秘密が不正取得行為(第4号)により取得されたものであることを知って(又は重大な過失により知らずに)営業秘密を取得する行為、又はその取得した営業秘密を使用し、若しくは開示する行為
- 第7号: 営業秘密を保有者から示された者(例:従業員、委託先)が、不正の利益を得る目的などで、その営業秘密を使用し、又は開示する行為
- 第8号: 第7号に該当する行為が介在したことを知って(又は重大な過失により知らずに)営業秘密を取得する行為、又はその取得した営業秘密を使用し、若しくは開示する行為
- 第2条第6項: 営業秘密の定義を定めています。前述の「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3要件を満たす情報が営業秘密となります。
- 差止請求(第3条)および損害賠償請求(第4条): 不正競争行為によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、その侵害の停止又は予防を請求できます(差止請求)。また、故意又は過失により不正競争行為によって営業上の利益を侵害した者に対し、これによって生じた損害の賠償を請求できます(損害賠償請求)。
AI学習データやモデルに関するこれらの条文の適用は、今後の裁判例の積み重ねによって具体的な解釈が深まっていくと考えられます。特に「秘密管理性」や「使用」といった要件が、大量データや複雑なAI技術の特性を踏まえてどのように解釈されるかが注目されます。
裁判所の判断(想定される判断の方向性)
この分野における確立した裁判例は少ないため、現時点で裁判所がどのような判断を下すかを断定することは困難です。しかし、既存の不正競争防止法に関する裁判例の考え方を踏まえれば、以下のような点が判断において重要になると推測されます。
- 秘密管理性: 企業AがAI学習データやモデル情報に対して講じていた秘密管理措置の具体性、徹底度、合理性が厳しく評価されると考えられます。単に「社外秘」と表示するだけでなく、アクセス権限の設定、利用ログの監視、データ持ち出しの制限、開発環境からの分離などが組織的かつ技術的に適切に行われていたかが鍵となります。特に、AI開発の特性上、大量のデータや外部ライブラリの利用、クラウド環境での開発などが行われることが多いため、これらの環境下での秘密管理措置の有効性が問われる可能性があります。過去の裁判例では、秘密管理措置が不十分であったために営業秘密性が否定されるケースが少なくありません。
- 有用性: AI学習データや学習済みモデルが、単なるデータの羅列ではなく、企業Aの事業にとって競争優位性をもたらす、またはコスト削減に寄与するなど、客観的に有用な情報として評価されるかが重要です。特に、学習済みモデルのパラメータ情報などは、そのモデルによって特定のタスクを効率的に実行できるという点で有用性が認められやすいと考えられます。
- 非公知性: 学習データが一般に公開されていない顧客情報や社内実験データなど、容易にアクセスできない情報から構成されている場合、非公知性が認められる可能性が高いです。学習済みモデルについても、モデルの構造やパラメータが企業秘密として管理されている限り、非公知性が認められるでしょう。ただし、公開されているデータのみで学習可能なモデルの場合や、モデルの出力から容易に内部構造やデータを推測できる場合は、非公知性が否定されるリスクがあります。
- 不正取得・不正使用: 元従業員Bが、企業Aの管理体制を乗り越えて情報を持ち出したのであれば、不正取得が認められやすいです。不正使用については、企業Cが元従業員Bから提供されたデータやモデルを利用して開発したシステムが、企業AのAIモデルと機能や性能においてどの程度類似しているか、持ち出された情報がその開発にどの程度寄与しているかなどが、「使用」行為の有無や程度を判断する上で考慮されると考えられます。単に持ち出した情報の内容を知っているだけでは「使用」とは評価されにくいでしょう。
事例からの示唆・学び
本事例シナリオから、AI開発に関わる企業や個人、そしてこの分野を学ぶ学生は、いくつかの重要な示唆を得ることができます。
- AI関連情報の「秘密管理性」確保の難しさと重要性: 大量のデータ、分散した開発環境、外部委託の活用など、AI開発特有の事情は、従来の営業秘密管理よりも複雑な課題を提示します。データやモデルファイルへの技術的なアクセス制限に加え、プロジェクトに関わるメンバーへの秘密保持義務の徹底、開発プロセスの管理、退職時の情報持ち出し防止策など、組織的・人的な対策も不可欠です。秘密管理性の不備は、情報が営業秘密として保護されないという致命的な結果につながります。
- 「有用性」「非公知性」の明確化の必要性: どのようなデータやモデルが営業秘密として保護したい情報なのかを具体的に特定し、その有用性や非公知性を説明できるようにしておくことが重要です。漫然とデータを管理するだけでなく、その情報のビジネス上の価値を認識し、外部に対して非公知である状態を維持するための意識を持つ必要があります。
- AIにおける「使用」概念の新たな検討: 学習データやモデル情報の「使用」が、どのような行為を指すのかは、今後の議論や裁判例を通じて具体化されていくと考えられます。モデルの学習に用いる、モデルをサービスに組み込む、モデルから情報を推論するなど、様々な利用形態が想定されるため、それぞれが不正競争防止法上の「使用」に該当するかを、過去の不正使用に関する裁判例の考え方を参考にしながら検討する必要があります。
- 技術と法制度の相互理解の重要性: AIという急速に進化する技術に対し、既存の法制度をどう適用するかは常に挑戦的な課題です。技術者は法律の基本的な考え方を理解し、法律家はAI技術の特性を理解することが、適切な情報保護戦略を立て、将来的な法改正や解釈の議論に貢献するために不可欠です。学生の皆さんにとっては、技術的な知見と法的な知識を組み合わせることが、この分野で活躍するための大きな強みとなるでしょう。
- 契約による保護の限界と重要性: 従業員や委託先との秘密保持契約(NDA)は重要ですが、契約違反が直ちに不正競争防止法上の営業秘密侵害となるわけではありません。不正競争防止法による保護を受けるためには、情報が「営業秘密」の要件を満たしている必要があります。しかし、NDAは、不正競争防止法の保護対象とならない情報についても秘密保持義務を課すことができるため、二重の保護として有効です。特にAI開発においては、共同研究開発契約やデータ提供契約など、多様な契約が関係するため、これらの契約において営業秘密に関する規定を明確に定めることが不可欠です。
まとめ
AI開発において生じうる営業秘密に関するトラブルは、技術の進展とともに新たな論点を含んでいます。AI学習データや学習済みモデルが不正競争防止法上の営業秘密として保護されるためには、「秘密管理性」「有用性」「非公知性」という要件を満たす必要がありますが、AI特有の事情がこれらの要件の判断を複雑にしています。特に、AI開発環境における適切な秘密管理措置の実施は、企業にとって喫緊の課題です。
本記事で解説したように、現時点では確立した裁判例は少ないものの、既存の不正競争防止法の枠組みをどのように適用するかが今後のポイントとなります。AI開発に携わる企業や個人は、自社の情報資産が営業秘密として保護されるよう適切な管理体制を構築するとともに、関連する法的なリスクを理解しておくことが重要です。法学部や経営学部の学生の皆さんにとっては、この分野は技術と法律が交錯する非常に興味深い領域であり、今後の法解釈や実務の動向を注視していく価値があると言えるでしょう。
本記事は想定される事例シナリオに基づき、法的な論点を解説したものであり、特定の事件や判例を解説するものではありません。実際の判断は個別の事案における具体的な事実関係に基づいて行われます。