【事例解説】退職者による顧客リスト持ち出し - 「有用性」が争点となったケース
はじめに
企業にとって、顧客に関する情報は事業活動を行う上で非常に重要な資産です。特に、顧客リストは、新規顧客開拓や既存顧客との関係維持に不可欠な情報を含んでおり、その保護は企業の利益に直結します。
しかし、従業員が退職する際に、このような重要な顧客リストを持ち出し、競合企業で利用するといったトラブルが後を絶ちません。このような行為は、企業の正当な利益を侵害する可能性があり、不正競争防止法上の「営業秘密の侵害」として争われることがあります。
本記事では、実際に発生した裁判事例をもとに、退職者による顧客リストの持ち出し・使用が、不正競争防止法上の営業秘密侵害に該当するかが争われたケースを取り上げます。特に、営業秘密の3つの要件の一つである「有用性」がどのように判断されたのかを中心に解説し、この事例から得られる示唆や学びについて考察します。
事案の経緯
本件は、ある企業で営業担当として勤務していた従業員が退職するにあたり、同社が管理していた顧客リスト情報の一部を不正に複製して持ち出し、その後、競合関係にある別の企業へ転職し、そこで持ち出した顧客リスト情報を利用したとされる事案です。
これに対し、情報の持ち出しを受けた元の企業(以下、「X社」といいます)は、元従業員(以下、「Y氏」といいます)およびY氏が転職した企業(以下、「Z社」といいます)に対し、不正競争防止法に基づき、顧客リスト情報の使用差止めや損害賠償を求めて訴訟を提起しました。
X社は、持ち出された顧客リスト情報が同社の営業秘密に該当し、Y氏およびZ社の行為が営業秘密の不正使用にあたると主張しました。一方、Y氏およびZ社は、当該顧客リスト情報は営業秘密には該当しない、あるいは不正な使用にはあたらないなどと反論しました。
法的な争点
この事例における主要な法的な争点は、Y氏が持ち出した顧客リスト情報が、不正競争防止法第2条第6項に定められる「営業秘密」に該当するかどうか、そして、その持ち出しおよびZ社での使用行為が同法に違反する不正競争行為にあたるかどうかです。
不正競争防止法上の営業秘密として保護されるためには、以下の3つの要件を満たす必要があります。
- 秘密管理性: 情報が秘密として管理されていること。アクセス制限や「マル秘」表示など、企業が情報を秘密として扱う意思を明確に示し、具体的な措置を講じていることが求められます。
- 有用性: 生産方法、販売方法その他の事業活動に用いることができる技術上又は営業上の情報であって、客観的にみて価値のある情報であること。単なる周知の事実や誰でも容易に入手できる情報は含まれません。
- 非公知性: 公然と知られていないこと。情報の保有者の管理下以外では一般に入手できない状態にあることが必要です。
本件では、特に顧客リスト情報の「有用性」が重要な争点となりました。顧客リストが単に顧客名や連絡先が並んでいるだけではなく、過去の取引履歴、購入傾向、担当者名、キーパーソン、交渉経緯など、営業活動を行う上で収益に結びつくような、客観的に価値のある情報を含んでいるかどうかが問われたのです。
また、Y氏が情報を持ち出した手段や、Z社においてその情報がどのように利用されたかといった点が、不正取得や不正使用といった不正競争行為に該当するかの判断において争われました。
関連法規の解説
本件に主として関連する法律は、不正競争防止法です。同法は、事業者間の公正な競争を確保することを目的としており、営業秘密の侵害行為を不正競争の一種として規制しています。
- 不正競争防止法第2条第6項: この条文は、営業秘密の定義を定めています。「この法律において『営業秘密』とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に用いることができる技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう。」と規定されています。
- 秘密管理性: 企業が情報を秘密として扱うための具体的な措置(アクセス権限の限定、パスワード設定、施錠管理、秘密保持契約の締結など)を講じていることが求められます。
- 有用性: 情報が客観的に見て事業活動にとって価値があることを意味します。具体的な事業活動に利用できる情報であること、あるいは利用によって利益が得られる蓋然性があることなどが判断要素となります。
- 非公知性: 情報が広く一般に知られていない状態にあることを指します。企業内部でしか知り得ない情報などがこれに該当します。
- 不正競争防止法第2条第1項第4号から第10号: これらの条文は、営業秘密の侵害行為(不正競争行為)を規定しています。例えば、不正な手段による営業秘密の取得、不正に取得した営業秘密の使用や開示、営業秘密であることにつき悪意または重過失がある第三者による取得・使用・開示などが含まれます。
本件では、顧客リスト情報がこれらの要件を満たす「営業秘密」に該当するか、そしてY氏やZ社の行為がこれらの条文に規定される不正競争行為にあたるかどうかが、裁判所によって判断されました。
裁判所の判断
裁判所は、提出された証拠に基づき、持ち出された顧客リスト情報が不正競争防止法上の「営業秘密」に該当するかどうかを詳細に検討しました。
特に「有用性」については、単に氏名や住所といった公開情報だけでなく、個別の顧客の取引状況、担当者との関係性、過去の購入履歴、潜在的なニーズに関する情報などが含まれており、これらの情報がX社の営業活動において、効率的な営業戦略の立案や顧客への効果的なアプローチに不可欠であり、実際に収益に結びつく可能性のある情報であると評価しました。したがって、裁判所は当該顧客リスト情報が「有用性」の要件を満たすと判断しました。
また、「秘密管理性」についても、X社が顧客リストへのアクセス権限を特定の従業員に限定し、パスワード設定や持ち出し制限に関する規程を設けていたことなどを踏まえ、一定の秘密管理措置が講じられていたと認定しました。「非公知性」についても、これらの顧客情報が一般には公開されていない情報であるとして要件を満たすと判断しました。
これらの判断に基づき、裁判所は、持ち出された顧客リスト情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当すると結論付けました。そして、Y氏の持ち出し行為が不正取得、Z社での使用行為が不正使用にあたると認定し、X社の差止請求および損害賠償請求を一部または全部認容する判決を下しました。
事例からの示唆・学び
この事例から、私たちは営業秘密、特に顧客リストの保護について重要な示唆を得ることができます。
第一に、顧客リストは単なる名簿ではなく、含まれる情報の質やそれが事業活動にどう活用されるかによって、営業秘密としての「有用性」が認められる可能性があるということです。単に顧客名と連絡先だけでなく、そこに付随する詳細な取引情報や営業上のノウハウに関連する情報が含まれているほど、有用性は認められやすくなります。
第二に、営業秘密として保護されるためには、「秘密管理性」が不可欠であるということです。顧客リストが重要な情報であると認識しているだけでは不十分であり、アクセス権限の管理、パスワード設定、書面での取り扱いルール、退職時の情報返還義務の徹底など、具体的な秘密管理措置を講じることが極めて重要です。これらの措置が不十分であれば、情報の「秘密管理性」が否定され、営業秘密として保護されないリスクが高まります。
第三に、退職時の情報管理の重要性です。従業員が退職する際に、意図的または無意図的に重要な情報を持ち出すリスクは常に存在します。退職者に対し、在職中に知り得た営業秘密について秘密保持義務があることを改めて確認し、企業が保有する情報を不正に持ち出さないよう注意喚起するとともに、必要な情報返還や消去手続きを徹底することが求められます。
法学部や経営学部に所属する学生の皆さんにとっては、この事例は、抽象的な法律の条文が実際のビジネスの場面でどのように適用されるのか、そして企業の知的財産や情報資産がどのように保護されるのかを理解する良い機会となります。将来、企業で働く際には、自分自身が取り扱う情報が営業秘密に該当する可能性があることを認識し、適切な情報管理を意識することが重要であることを学ぶことができます。また、営業秘密の要件、特に「有用性」のような一見分かりにくい概念が、具体的な事実関係に基づいてどのように判断されるのかを考察することは、法的な思考力を養う上でも有益です。
まとめ
本記事では、退職者による顧客リストの持ち出しが不正競争防止法上の営業秘密侵害にあたるかが争われた裁判事例を取り上げ、特に営業秘密の「有用性」に焦点を当てて解説しました。
この事例は、顧客リストに含まれる情報の内容や、それが企業の事業活動にどう貢献するかによって、「有用性」が肯定され、営業秘密として保護されることを示しています。同時に、企業が顧客リストを営業秘密として保護するためには、その価値の認識だけでなく、厳格な秘密管理措置が不可欠であることを改めて浮き彫りにしました。
企業の重要な情報資産である営業秘密の保護は、企業活動の根幹に関わる課題です。不正競争防止法に関する正確な知識と、適切な情報管理の実践が、トラブルを未然に防ぎ、企業の競争力を維持するために不可欠であると言えるでしょう。