【事例解説】営業秘密侵害の証拠はどう集める? - 裁判で侵害立証が争点となったケース
営業秘密侵害訴訟における「立証」の壁とは
企業にとって、長年培ってきた技術情報、顧客リスト、ビジネスノウハウといった営業秘密は、競争力の源泉です。しかし、これらが不正に取得されたり使用されたりするリスクは常に存在します。不正競争防止法は、このような営業秘密侵害行為から企業を守るための法的な枠組みを提供していますが、実際に裁判で侵害を認めさせ、差止や損害賠償を実現することは容易ではありません。
特に大きな壁となるのが、「営業秘密が侵害されたこと」を立証することです。侵害行為は密かに行われることが多く、その証拠は加害者の手元にあることがほとんどです。この記事では、営業秘密侵害訴訟において、被害を受けた側がどのように証拠を集め、立証責任を果たす必要があるのか、そしてそれがどのように困難であるか、具体的な事例を通じて解説いたします。不正競争防止法における証拠収集に関する特別な規定にも触れ、この種の訴訟が抱える特有の課題と、そこから得られる示唆について考察を深めていきます。
事案の経緯:退職者による顧客リスト持ち出し疑惑
ここに、典型的な営業秘密侵害トラブルのケースを想定します。
あるITサービス企業A社は、中小企業向けに独自の顧客管理システムを開発・提供しており、そのシステムで管理されている顧客リストと、顧客ごとの利用状況や担当者の特性といった情報は、A社の営業秘密として厳重に管理されていました。
数年前、A社の営業担当であったX氏が競業他社B社へ転職しました。X氏はA社での実績が高く評価されていた人物です。X氏の退職後、A社の一部の主要顧客がB社へ乗り換えるという事態が発生しました。さらに、B社が提供するサービスが、A社が持つ顧客リストに登録されている特定の属性を持つ顧客にピンポイントで営業をかけているらしい、という情報も耳にするようになりました。
A社は、X氏が退職時に顧客リスト情報を不正に持ち出し、B社で利用しているのではないかと疑念を抱きました。しかし、X氏の退職時に情報持ち出しに関する明確な証拠(例えば、USBメモリへのコピー履歴や不審なメール送信履歴など)を発見することはできませんでした。また、B社が具体的にどのようにA社の顧客リストを利用しているのか、その証拠も掴めませんでした。
A社は、X氏およびB社に対して営業秘密侵害行為の差止と損害賠償を求めて訴訟を提起することを決断しましたが、その最大の課題は、どのようにしてX氏による情報持ち出し行為とB社での不正使用行為を立証するか、という点でした。
法的な争点:「不正使用」の立証責任と証拠収集の困難さ
この事例における主要な法的な争点は、以下の点に集約されます。
- A社の顧客リスト情報が不正競争防止法上の「営業秘密」に該当するか: これには「秘密管理性」「有用性」「非公知性」という3つの要件を満たす必要があります。A社はこれらの要件を満たすよう、情報へのアクセス制限や従業員への秘密保持の周知などの管理を行っていましたが、裁判ではその管理状況が厳格に審査されます。
- X氏が営業秘密を不正に取得または使用したか: X氏が退職時に顧客リスト情報をコピーしたり持ち出したりした行為(不正取得)や、B社でその情報に基づいて営業活動を行った行為(不正使用)が問題となります。
- B社がX氏から営業秘密を取得し、不正に使用したか: B社がX氏から顧客リスト情報を受け取り、それを自社の営業活動に利用したかどうかが問われます。B社がX氏による情報持ち出しを認識していたか、または認識できたかといった点も重要になります。
特に、この事例でA社が直面するのは、X氏による情報持ち出し(不正取得)およびB社での情報利用(不正使用)を具体的に立証するための証拠が手元にないという問題です。不正競争防止法による営業秘密侵害訴訟においても、民事訴訟の原則通り、原告(被害を受けたA社)が、相手方による不正行為の事実を立証する責任を負います。
しかし、不正な情報持ち出しや利用は、多くの場合、記録に残りにくい、あるいは記録が隠蔽されやすい行為です。退職した従業員のパソコンやメールはアクセスできなくなりますし、転職先の企業内の活動状況は外部からは分かりません。そのため、A社はX氏が顧客リスト情報を持ち出した決定的な証拠や、B社がその情報をどのように営業に利用しているかを示す直接的な証拠を得ることが極めて困難なのです。
関連法規の解説:証拠収集の特別規定とその限界
営業秘密侵害訴訟における被害企業の立証負担を軽減するため、不正競争防止法にはいくつかの特別な規定が設けられています。
- 書類提出命令(不正競争防止法第7条): 裁判所は、当事者の申立てにより、営業秘密の侵害の有無に関する判断のために必要があると認めるときは、相手方に対し、その営業秘密の内容が記載された書類であって、その侵害行為を証明するために必要なものの提出を命じることができます。これは、相手方が持っている証拠を強制的に提出させる手続きの一つですが、提出を命じられる書類は「その営業秘密の内容が記載された書類」に限定されており、侵害行為そのものを直接証明する書類(例えば、情報持ち出しのログなど)の提出は、この条文の直接の対象とはなりにくい場合があります。また、提出命令が出された場合でも、営業秘密の開示による二次被害を防ぐための閲覧制限(不正競争防止法第9条)といった手続きも同時に行われます。
- 損害額の算定に関する特則(不正競争防止法第5条の2、第5条の3): 損害額の立証もまた困難な側面ですが、不正競争防止法には、侵害者が侵害行為によって利益を得た額を損害額と推定する規定や、営業秘密の実施に対して通常受けるべき金銭の額を損害額とみなす規定などがあり、被害企業の損害立証負担を軽減しようとしています。しかし、これらの規定をもってしても、侵害行為そのものが存在したことの立証責任は免除されません。
これらの規定は、証拠収集や損害立証を支援するものですが、万能ではありません。特に、侵害行為そのものの存在を基礎づける証拠については、特則が適用できる範囲には限界があり、被害企業は自らの努力で証拠を集める必要に迫られることが多いのです。
裁判所の判断:間接証拠の積み重ねと限界
想定する事例において、A社が提出できる証拠は、直接的な情報持ち出しや利用の証拠ではなく、以下のような間接的な証拠に限られることが多いでしょう。
- X氏の退職直後にA社の顧客がB社へ乗り換えたという事実
- X氏がA社で担当していた顧客がB社に流出する割合が、担当外の顧客と比較して著しく高いという統計データ
- B社が特定の顧客層に集中的に営業活動を行っているという情報
- X氏が退職前に顧客情報を頻繁に閲覧していたというログデータ(ただし、これが不正取得の意図を示すかどうかが争点になりうる)
- X氏やB社関係者のSNS等における発言(ただし、営業秘密の利用を直接示唆するものではない場合が多い)
- X氏がA社退職前に利用していた業務PCのデータの一部回復
裁判所は、これらの間接証拠を総合的に評価し、X氏やB社による営業秘密の不正使用があったと推認できるかどうかの判断を行います。しかし、間接証拠の積み重ねだけでは、合理的な疑いを差し挟む余地がないほどに侵害行為を強く推認できないと判断されることも少なくありません。
例えば、顧客の流出は、X氏の個人的な信頼関係やB社のサービスの魅力によるものかもしれない、と裁判所が判断する可能性もあります。情報閲覧履歴も、業務上正当な理由での閲覧だったと反論される可能性があります。
結果として、直接的な証拠が乏しい場合、裁判所は証拠不十分としてA社の請求を棄却する、あるいは損害額の算定で困難が生じるといった判断に至る可能性が高まります。不正競争防止法の証拠収集特則が利用できたとしても、命令の対象となる書類が限定的であったり、相手方が正当な理由なく提出を拒否したりするなど、必ずしも期待通りの効果が得られないことも現実には起こり得ます。
事例からの示唆・学び:予防と初動の重要性
この事例から得られる最も重要な示唆は、営業秘密侵害が発生した場合の立証がいかに困難であるか、そして侵害を未然に防ぐための予防策と、侵害発生時の迅速な初動がいかに重要であるかという点です。
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予防策の徹底: 営業秘密の保護は、訴訟に頼る前にどれだけ強固な予防策を講じているかにかかっています。
- 秘密管理性の強化: 営業秘密に該当する情報を特定し、アクセス権限の限定、パスワード設定、物理的な施錠、社内規程での明記、従業員への周知徹底などを図ること。退職者からの秘密保持誓約書の取得も有効です。
- 情報持ち出し防止策: 情報システムによるアクセスログの監視、不審なファイルコピーやメール送信のアラート設定、USBポートの制限などを検討すること。特にリモートワーク環境下での対策は喫緊の課題です。
- 契約による保護: 取引先や業務提携先との秘密保持契約(NDA)の締結、従業員との雇用契約における秘密保持義務や競業避止義務条項の設定も重要です。
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侵害発生時の初動: 万が一侵害が疑われる事態が発生した場合、迅速な初動が証拠確保の鍵となります。
- 事実関係の確認と証拠の保全: 疑わしい行為(不審なアクセスログ、退職者のデバイス履歴など)に関する証拠を可能な限り早期に保全すること。
- 内容証明郵便の送付: 侵害行為の中止や情報の返還などを求める内容証明郵便を送付することで、相手方に対して自社の権利を主張し、その後の法的手続きの証拠とすることができます。
- 専門家への相談: 弁護士やフォレンジック専門家などに速やかに相談し、法的な観点からの証拠収集方法や、証拠保全手続き(民事保全法に基づく証拠保全など)の可能性について検討することが重要です。
法学部や経営学部の学生の皆さんにとっては、この事例は、知的財産権としての「営業秘密」が単なる法律上の定義だけでなく、ビジネスの実践においていかに重要であり、その保護が技術的・管理的な側面と深く結びついているかを学ぶ良い機会となります。将来企業活動に携わる上で、自社の情報資産を守り、また他社の情報資産を尊重するための意識を持つことが、トラブルを避け、持続可能な成長を実現するために不可欠であることを理解してください。
まとめ
営業秘密侵害訴訟において、被害を受けた側が侵害の事実を立証することは、多くの場合、困難を伴います。特に、情報持ち出しや不正使用といった行為は巧妙に行われることが多く、直接的な証拠の入手が極めて難しいためです。不正競争防止法には証拠収集を支援する特則が存在しますが、それをもってしても立証責任が免除されるわけではなく、間接的な証拠を積み重ねて裁判所の推認を得る必要があります。
この事例から、営業秘密を保護するためには、侵害が発生した後の訴訟対応だけでなく、侵害を未然に防ぐための厳重な秘密管理と、万が一侵害が疑われる場合の迅速かつ適切な初動が決定的に重要であることが示唆されます。企業は日頃から情報管理体制を強化し、従業員のセキュリティ意識を高める努力を怠ってはなりません。そして、学生の皆さんには、社会に出る上で、情報資産保護の重要性を深く認識し、企業活動におけるコンプライアンスの一環としてこれを理解しておくことが求められます。