【事例解説】M&Aデューデリジェンスでの情報開示と秘密保持義務違反 - NDA違反が営業秘密侵害となる境界線
はじめに
M&A(企業の合併・買収)のプロセスにおいて、対象企業(売却側)は、買収候補企業(買収側)に対して、その経営状態や財務状況、技術情報など、詳細な情報を開示します。この情報開示の手続きをデューデリジェンス(Due Diligence: DD)と呼びます。DDでは、企業の機密情報が大量にやり取りされるため、情報漏洩や不正利用のリスクが極めて高まります。
このリスクを管理するために、DDに先立って買収側と売却側との間で秘密保持契約(Non-Disclosure Agreement: NDA)が締結されるのが通例です。NDAは、開示された情報の秘密保持義務、使用目的の制限、返還・廃棄義務などを定めます。
しかしながら、M&A交渉が破談した場合などに、DDで開示された情報が秘密保持契約の範囲を超えて利用されるといったトラブルが発生することがあります。このような行為は、単なる契約違反にとどまらず、不正競争防止法が保護する「営業秘密」の侵害となる可能性も考えられます。
本記事では、M&AのDDにおいて開示された情報が、秘密保持契約に違反して利用されたケースを取り上げ、その行為が不正競争防止法上の営業秘密侵害となるか否かが争点となった事例を解説します。秘密保持契約違反と不正競争防止法違反の関係性について、法的な視点から深く掘り下げていきます。
事案の経緯
本件は、ある企業(以下、「売却側」といいます。)が自社の事業の一部または全部の売却を検討し、複数の企業(以下、「買収側候補」といいます。)とM&Aに関する交渉を開始したことに端を発します。
売却側は、本格的なDDに進むにあたり、各買収側候補との間で秘密保持契約を締結しました。この秘密保持契約には、開示される情報の秘密保持義務、利用目的を当該M&Aの検討に限定する条項、交渉が破談した場合の情報の返還または廃棄義務などが含まれていました。
ある買収側候補は、この秘密保持契約に基づき、売却側から事業に関する詳細な技術情報、顧客情報、財務情報など、多岐にわたる機密情報の開示を受け、DDを実施しました。しかし、最終的にM&A交渉は条件面で合意に至らず、破談となりました。
交渉破談後、売却側は、秘密保持契約に基づき買収側候補に対して開示情報の返還または廃棄を求めましたが、買収側候補はこれに応じなかった、または一部の情報について返還・廃棄したと主張しつつも、実際にはDDで得た情報を自社の別の事業開発や、他のM&A案件の検討に利用している疑いが生じました。
これを知った売却側は、買収側候補の情報利用行為が秘密保持契約違反であると同時に、不正競争防止法が禁じる営業秘密の不正使用に該当するとして、買収側候補に対し差止請求や損害賠償請求を行う訴訟を提起しました。
法的な争点
本事例における主な法的な争点は以下のとおりです。
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開示された情報が不正競争防止法上の「営業秘密」に該当するか否か
- 不正競争防止法において保護される「営業秘密」とは、(1) 비밀として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、(2) 公然と知られていないもの(非公知性)をいいます(同法2条6項)。本件でDDにより開示された情報が、これらの要件(秘密管理性、有用性、非公知性)を満たすかどうかが問われました。特に、DDという特定の目的のために開示された情報について、売却側がどの程度「秘密として管理」していたか、そしてその情報が「有用」であったかどうかが争点となりました。
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買収側候補の情報利用行為が「不正使用」にあたるか否か
- 不正競争防止法は、営業秘密を「不正の目的」で「使用」する行為を不正競争行為の一つとして禁じています(同法2条1項7号)。本件では、買収側候補がDDで得た情報を、秘密保持契約で定められた利用目的(当該M&Aの検討)の範囲を超えて、自社の別の事業や他のM&A検討に利用した行為が、この「不正使用」に該当するかどうかが問われました。特に、「不正の目的」の有無が重要な争点となります。秘密保持契約で利用目的が限定されていたにもかかわらず、その制限を超えて利用した行為が、直ちに「不正の目的」と評価されるかどうかが論点となりました。
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秘密保持契約違反が不正競争防止法上の「不正使用」とどのように関連するか
- 秘密保持契約は当事者間の契約であり、その違反は債務不履行となります。一方、不正競争防止法違反は不法行為となります。両者は法的根拠が異なりますが、本件のように秘密保持契約で定められた利用目的の範囲を超えた情報利用行為が、同時に不正競争防止法上の「不正使用」にも該当しうるかが問題となります。契約上の義務違反が、不法行為上の「不正」と評価されるかどうかが、裁判所の判断において重要な要素となります。
関連法規の解説
本事例に関連する不正競争防止法の主な条文と、関連する法的な考え方を解説します。
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不正競争防止法第2条第1項第7号(営業秘密の不正使用): 「営業秘密が…次に掲げる不正競争に該当する行為(同項第四号から第六号まで及び第八号から第十一号までに掲げる行為を除く。)によって取得されたものであること…を知って、若しくは重大な過失により知らないで、その営業秘密を使用し、又は開示する行為」 「その営業秘密が…不正競争…に該当する行為…によって開示されたものであること…を知って、若しくは重大な過失により知らないで、その営業秘密を使用し、又は開示する行為」 「その後にその営業秘密を不正の競争その他の不正の目的で使用し、又は開示する行為」 本条文は、不正に取得または開示された営業秘密を、その後「不正の競争その他の不正の目的」で使用または開示する行為を不正競争として定めています。本件では、秘密保持契約違反という契約上の「不正」が、「不正の競争その他の不正の目的」に該当するかが問題となります。
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不正競争防止法第2条第6項(営業秘密の定義): 「この法律において「営業秘密」とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう。」 この定義にあるように、「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3要件を満たす情報が営業秘密として保護されます。
- 秘密管理性: 情報が秘密である旨が明示されている、アクセス権限が限定されているなど、企業が情報を秘密として管理しようとする客観的な事実があることが必要です。M&AのDDでは、通常、NDAの締結やデータルームでの閲覧制限などが講じられますが、その管理の程度が十分かどうかが争点となることがあります。
- 有用性: その情報が客観的に見て事業活動にとって有益であること、例えばコスト削減、効率化、利益獲得などに資する情報であることが必要です。
- 非公知性: その情報が広く一般に知られていないこと、または容易に入手できない状態にあることが必要です。
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秘密保持契約(NDA): NDAは、情報の開示者と受領者の間で締結される契約です。開示される情報の範囲、秘密保持義務、情報の利用目的、第三者への開示制限、契約終了後の情報の返還・廃棄義務、違反時の措置などが定められます。NDAは当事者間のみを拘束する契約ですが、その違反が不正競争防止法上の「不正使用」の判断において考慮される場合があります。
裁判所の判断
本事例と同様のケースにおいて、裁判所はいくつかの要素を考慮して判断を下しています。
まず、「営業秘密」該当性については、M&AのDDにおいて開示される情報は、通常、売却側が秘密として管理し、事業上の有用性を持ち、公然と知られていないものが含まれるため、営業秘密に該当すると判断されることが多い傾向にあります。特に、NDAを締結し、限られた関係者のみに情報を提供するといった措置が講じられていれば、「秘密管理性」も認められやすいと考えられます。
次に、「不正使用」にあたるかどうかが主要な論点となります。裁判所は、単に秘密保持契約の利用目的制限に違反しただけでなく、その違反行為が「不正の競争その他の不正の目的」によるものといえるか否かを慎重に判断します。具体的には、以下の点が考慮されます。
- 秘密保持契約の明確性: 秘密保持契約において、情報の利用目的や返還・廃棄義務がどの程度明確に定められていたか。
- 利用行為の態様: 買収側候補がDDで得た情報を、秘密保持契約の目的からどの程度逸脱して利用したか。例えば、全く関係のない新規事業の開発に利用したのか、それとも類似分野での他のM&A検討に利用したのかなど、その利用の性質が考慮されます。
- 利用の意図: 買収側候補が、秘密保持契約に違反することを認識または認識しうる状態で、情報を利用したか。売却側の利益を不当に害する意図があったかなど、主観的な要素も推認される場合があります。
- 交渉破談後の対応: 交渉破談後、買収側候補が開示情報の返還・廃棄義務を誠実に履行しようとしたか。義務履行を拒否したり、情報を隠匿したりするような態度は、不正の目的を強く推認させる要素となり得ます。
これらの要素を総合的に考慮し、裁判所は、秘密保持契約で厳格に利用目的が限定されていた情報を、買収側候補がその制限を明らかに超えて、かつ売却側の事業活動に損害を与える可能性がある方法で利用した場合、その行為は「不正の目的」による「使用」にあたり、不正競争防止法上の営業秘密侵害を構成すると判断する場合があります。一方で、単に契約上の手続きミスや軽微な利用に留まる場合は、直ちに不正競争防止法違反とは判断されない可能性もあります。
結論として、本事例のようなケースでは、単なる契約違反にとどまらず、秘密保持契約で定められた利用目的の逸脱が、不正競争防止法上の「不正の目的」による営業秘密の「使用」に該当すると判断され、買収側候補に差止や損害賠償が命じられる可能性があります。
事例からの示唆・学び
本事例は、M&AのDDという特定の文脈における営業秘密保護の重要性と、秘密保持契約だけでは必ずしも十分ではないことを示唆しています。この事例から、以下の点を学ぶことができます。
- M&Aにおける情報管理の徹底: M&AのDDでは極めて機密性の高い情報が多数開示されます。売却側は、開示する情報の範囲を慎重に検討し、アクセス権限を限定するなど、厳格な秘密管理措置を講じる必要があります。
- 秘密保持契約の重要性と限界: 秘密保持契約は情報保護の基本ですが、万能ではありません。特に、利用目的、開示情報の特定方法、返還・廃棄義務、違反時の措置などを具体的に、曖昧さのないように定めることが重要です。しかし、契約違反が直ちに不正競争防止法違反となるわけではないため、不正競争防止法上の保護を受けるためには、情報が「営業秘密」の要件を満たしている必要があります。
- 利用目的逸脱行為のリスク: 情報受領者である買収側候補は、秘密保持契約で定められた利用目的を厳守する義務があります。目的外利用は契約違反であるだけでなく、本事例のように不正競争防止法違反として、より重い責任を追及されるリスクがあることを認識すべきです。
- 交渉破談後の対応: 交渉が破談した場合、情報受領者は速やかに秘密保持契約に従い、開示情報の返還または廃棄を行う必要があります。この義務を怠ったり、情報を保持・利用したりする行為は、後々のトラブルの原因となり、法的責任を問われる可能性を高めます。
- 学生の学びとして: 法学部生にとっては、契約法と不法行為法(不正競争防止法)の交錯する領域を理解する良い事例です。一つの行為が、契約違反と不法行為の双方を構成しうることを学びます。また、経営学部生にとっては、M&Aという経営戦略において、法務・知財のリスク管理がいかに重要であるかを理解するきっかけとなるでしょう。将来、企業の法務部門やM&Aアドバイザリー業務などに携わる際には、このような情報の取り扱いに関する知識が必須となります。
まとめ
本記事では、M&Aのデューデリジェンスにおいて開示された情報が、秘密保持契約に違反して利用されたケースを取り上げ、それが不正競争防止法上の営業秘密侵害となるか否かが争点となった事例について解説しました。
秘密保持契約は当事者間の情報保護の基礎となりますが、その違反行為が「不正の目的」による営業秘密の「使用」と評価される場合、不正競争防止法上の責任も発生し得ます。特にM&AのDDで開示される情報は、企業の機根に関わるものが多いため、その取り扱いには最大限の注意が必要です。
企業は、M&A交渉において、開示情報の秘密管理を徹底し、秘密保持契約の内容を明確に定める必要があります。また、情報を受領する側は、契約上の利用目的を厳守し、交渉破談後の情報の適切な管理・廃棄を行う義務を誠実に履行することが、法的リスクを回避するために極めて重要です。