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【事例解説】製造現場の「暗黙知」は営業秘密になるか? - 最適な作業手順・調整ノウハウの秘密管理性

Tags: 営業秘密, 不正競争防止法, 秘密管理性, 製造業, ノウハウ, 裁判事例, 暗黙知

導入

製造業において、長年の経験や試行錯誤によって蓄積された、文書化されていない「暗黙知」とも呼べるノウハウは、製品の品質や生産効率に大きく影響します。例えば、機械の微妙な調整方法、特定の材料を扱う際の最適な温度や時間、熟練者のみが知る作業の「コツ」などです。これらの情報は、競合他社にとっては非常に価値が高いものとなり得ますが、その性質上、厳密な秘密管理が難しいという側面があります。

この記事では、このような製造現場の暗黙知や、形式知化されにくいノウハウが、不正競争防止法上の「営業秘密」として保護されるのか、特に「秘密管理性」の要件を満たすかが争点となった裁判事例に焦点を当てて解説します。属人的なノウハウの保護を巡る法的論点や、企業が取るべき対策について理解を深めることを目的とします。

事案の経緯

想定する事案は、ある製造業のA社で長年勤務し、特定の製品の製造工程において独自のノウハウ(最適な機械のパラメータ調整方法、特定の材料投入タイミング、品質ばらつきを抑えるための微妙な作業手順など)を培った熟練技術者のX氏が退職し、競合であるB社に転職したケースです。

X氏がB社で働き始めた後、B社がA社と同等またはそれ以上の品質の製品を、短期間で製造できるようになったことが判明しました。A社は、X氏がA社の製造ノウハウをB社に持ち込み、使用したことが原因であると考え、不正競争防止法に基づきB社やX氏に対して差止請求や損害賠償請求を検討することになりました。

A社が問題としたノウハウの中には、製造マニュアルには記載されているものの、具体的なニュアンスや状況に応じた臨機応変な対応といった、文字では表現しきれない部分が多く含まれていました。また、一部のノウハウは、特定の熟練担当者間で口頭で伝えられているだけで、社内全体で共有されていなかったり、アクセスが物理的に制限されていなかったりするものもありました。

法的な争点

この事例における主要な法的な争点は以下の通りです。

  1. 問題となる情報が「営業秘密」に該当するか: 不正競争防止法2条1項6号に定める「営業秘密」の定義である、①秘密として管理されていること(秘密管理性)、②生産活動、販売活動又は研究開発活動に有用な技術上又は営業上の情報であること(有用性)、③公然と知られていないこと(非公知性)の三要件を満たすかが問われます。特に、文書化されていない、あるいは特定の担当者しか知らないノウハウが「秘密管理」されていたと言えるかが大きな争点となります。
  2. 秘密管理性の有無: 製造マニュアルに記載されていない、または記載が抽象的な部分や、口頭伝承されたノウハウに対して、A社が具体的にどのような秘密管理措置を講じていたかが問われます。例えば、情報のアクセス権限の限定、秘密である旨の表示、従業員からの秘密保持に関する誓約書の取得、情報に触れる従業員への教育などが考慮されます。属人的なノウハウの場合、物理的・技術的な管理だけでなく、組織的・人的な管理(誰がその情報にアクセスできるか、どのように伝達されるか、その情報が秘密であるという認識が共有されているかなど)がより重要になりますが、その立証は困難を伴います。
  3. 不正使用行為の有無: 元従業員X氏がB社でA社のノウハウを使用した行為が、不正競争防止法上の「不正使用」にあたるかが争点となります。特に、X氏が個人的な記憶に基づき、A社で培った知識・経験をB社で活用した場合、それが直ちにA社の営業秘密の「不正使用」にあたるのか、あるいは職業上の正当な経験・知識の利用の範囲内にとどまるのかが問題となります。判例上、単なる個人的な記憶・経験の範囲を超える情報の利用は不正使用にあたりうるとされていますが、その境界線は曖昧です。

関連法規の解説

この事例に関連する主な法規は、不正競争防止法です。

特に「秘密管理性」に関しては、単に「社外秘」と表示するだけでなく、情報の保管場所に鍵をかける、データへのアクセス権限を設定する、秘密情報を含む資料を持ち出し禁止とする、従業員との間で秘密保持契約や誓約書を締結するといった具体的な措置が必要です。しかし、製造現場の「暗黙知」のように、物理的な媒体に固定されておらず、個人の技能や経験に結びついている情報は、このような形式的な管理が難しいという問題があります。裁判所は、情報の性質や企業の規模、業種など、様々な事情を総合考慮して秘密管理性の有無を判断します。

裁判所の判断

このような事例において、裁判所の判断は分かれうる可能性がありますが、一般的には以下のような考え方が示されることが多いです。

まず、問題となる情報が「営業秘密」の定義を満たすかが厳格に審査されます。特に「秘密管理性」については、企業が文書化されていないノウハウに対して、どの程度の秘密管理措置を講じていたかが詳細に検討されます。

もし、そのノウハウが特定の熟練者によってのみ共有され、他の従業員からは容易にアクセスできない状態にあったとしても、それが企業全体として秘密として管理されているという認識が徹底されておらず、アクセス制限や秘密表示、従業員への秘密保持義務の周知といった措置が不十分であった場合、裁判所は「秘密管理性」を否定し、その情報が営業秘密ではないと判断する可能性があります。特に、物理的な管理が難しい「暗黙知」については、その秘密管理性を認めるハードルが高くなる傾向にあります。

一方で、企業が、そのノウハウが重要な秘密情報である旨を従業員に繰り返し注意喚起し、就業規則や個別の秘密保持に関する誓約書で秘密保持義務を課し、ノウハウを知る従業員を限定し、関係者以外が製造工程に容易に立ち入れないような対策を講じていた、といった事情があれば、秘密管理性が認められる可能性も高まります。

仮に秘密管理性が認められ、営業秘密であると判断されたとしても、元従業員X氏の行為が「不正使用」にあたるかが問題となります。X氏が個人的な記憶に基づき、A社で得た一般的な知識や経験としてB社で活用しているに過ぎないと判断された場合、不正使用は否定されることがあります。しかし、もしX氏がA社から持ち出した文書化された情報(たとえそれが完全なノウハウを示すものでなくても)を利用したり、A社の具体的な製造プロセスをそのまま再現するために記憶以外の何らかの手段(例えば、秘密情報を記載したメモなど)を用いたと認められた場合には、不正使用が肯定される可能性が高まります。

多くの裁判例では、製造現場の属人的なノウハウの秘密管理性を認めることに消極的な傾向が見られます。これは、個人のスキルや経験と、企業の営業秘密との区別が難しいことに加え、企業が「暗黙知」に対して十分な秘密管理措置を講じていることを立証することが非常に困難であるためです。

事例からの示唆・学び

この事例から得られる示唆や学びは以下の通りです。

まとめ

製造現場で培われた「暗黙知」や形式知化されにくいノウハウを巡るトラブルは、営業秘密保護の難しさを典型的に示す事例です。これらの情報は、技術的な「有用性」や「非公知性」を満たす可能性はあっても、最もハードルとなるのは「秘密管理性」の要件です。

企業は、たとえ文書化が難しい情報であっても、それを重要な秘密情報であると認識し、アクセス権限の限定、秘密保持義務の周知・徹底、従業員教育といった組織的・人的な管理努力を最大限に行う必要があります。同時に、可能な範囲でノウハウを形式知化し、より明確な物理的・技術的な秘密管理措置を講じることも重要です。

この事例を通じて、法的な保護を受けるためには、単に価値のある情報を持っているだけでなく、それが適切に「秘密として管理されている」という状態を作り出すことがいかに重要であるかを理解することができます。