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【事例解説】研究開発の「失敗データ」は営業秘密になるか? - 試行錯誤情報の有用性・秘密管理性が争点となったケース

Tags: 営業秘密, 研究開発, 有用性, 秘密管理性, 退職者

導入

企業における研究開発活動は、新しい技術や製品を生み出す源泉であり、その過程で蓄積される情報は極めて重要です。成功した技術や製品に関する情報はもちろんですが、成功に至るまでの試行錯誤の記録や、結果として失敗に終わった実験のデータも、その後の研究開発の方向性を定める上で貴重な示唆を与える場合があります。

これらの「失敗データ」や「試行錯誤情報」は、果たして不正競争防止法上の「営業秘密」として保護されるのでしょうか。本稿では、こうした情報が営業秘密にあたるかが争点となった裁判事例を取り上げ、その法的な論点と裁判所の判断を解説します。

事案の経緯

本件は、ある技術開発企業において、特定の製品の研究開発プロジェクトが進められていた際に発生した事案です。このプロジェクトでは、目標とする性能を達成するために、様々な試行錯誤が繰り返され、多くの実験データやその過程で得られた知見が、実験ノートや電子ファイルとして記録されていました。中には、特定の技術アプローチがなぜ有効でないか、あるいは特定の条件下ではどのような問題が発生するか、といった「失敗」に関する詳細なデータも含まれていました。

プロジェクトに深く関与していた技術者の一人が、退職後に競合する企業に転職しました。その後、この元技術者が、在職中に知り得た、あるいは持ち出した当該プロジェクトに関する情報、特に試行錯誤のプロセスや失敗に関するデータを、転職先の企業での開発活動に利用している疑いが生じました。

元の企業は、この元技術者および転職先の企業に対し、自社の研究開発情報が営業秘密にあたるとして、不正競争防止法に基づき情報の使用差止や損害賠償を求める訴訟を提起しました。

法的な争点

本件の最大の争点は、元技術者が持ち出し、または利用した情報が、不正競争防止法2条6項に定める「営業秘密」に該当するかどうかでした。営業秘密に該当するためには、以下の3要件を全て満たす必要があります。

  1. 秘密管理性: 情報が秘密として管理されていること。
  2. 有用性: 生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であること。
  3. 非公知性: 公然と知られていないこと。

特に本件では、「失敗データ」や「試行錯誤情報」に「有用性」が認められるか、そして、それらの情報が研究開発プロジェクトの中で適切に「秘密管理」されていたかが中心的な争点となりました。

相手方からは、「失敗データは、製品開発に直接的に結びつかない無価値な情報であり、有用性がない」「試行錯誤の過程は一般的な研究開発プロセスに過ぎず、特別な秘密管理はされていなかった」といった反論が主張されました。

関連法規の解説

不正競争防止法2条1項4号は、営業秘密の不正取得、使用、開示等を不正競争行為として禁止しています。そして、同条6項において「営業秘密」を上記の3要件を満たすものと定義しています。

裁判所の判断

裁判所は、本件の「失敗データ」や「試行錯誤情報」の営業秘密性について、以下のように判断しました。

まず「有用性」について、裁判所は、単に製品が完成しなかったり、特定の技術アプローチがうまくいかなかったりしたとしても、その過程で得られたデータや知見が、その後の研究開発の方向性を修正するため、あるいは同様の失敗を回避するために役立つのであれば、客観的な有用性を有すると判断しました。本件の失敗データは、特定の技術が理論上可能であっても現実的な制約から実現困難であることを示唆するものであり、その後の研究開発における無駄な投資や時間を省く上で、企業にとって価値のある情報であると認められました。

次に「秘密管理性」について、裁判所は、当該研究開発プロジェクトに関する情報が、プロジェクトメンバー以外のアクセスが制限されたサーバーに保管されていたこと、実験ノートが鍵のかかる棚に保管され、プロジェクト完了後も適切に管理されていたこと、また、従業員に対してプロジェクト情報の秘密保持義務に関する周知が図られていたことなどを認定しました。これらの事実に基づき、当該情報は秘密として管理されていたと判断しました。

「非公知性」については、当該失敗データや試行錯誤情報は、企業の内部でのみ記録・共有されていた情報であり、外部に開示されたり、容易に入手できたりする情報ではなかったため、非公知性も認められました。

これらの判断の結果、裁判所は、元技術者が持ち出し、または利用した当該「失敗データ」や「試行錯誤情報」は営業秘密に該当すると認定し、元技術者および転職先企業の行為が不正競争防止法上の不正競争行為にあたると判断しました。そして、情報の使用差止や損害賠償を命じる判決を下しました。

事例からの示唆・学び

本事例は、研究開発活動において生じる「失敗データ」や「試行錯誤情報」といった、一見ネガティブに捉えられがちな情報にも、営業秘密としての価値が認められうることを示しています。単に成功した情報だけでなく、そこに至るまでのプロセス全体、あるいは失敗を通じて得られた知見も、その後の事業活動にとって有用である可能性があるということです。

このことは、企業が営業秘密管理を考える上で、保護すべき情報の範囲を広げて捉える必要があることを示唆しています。研究開発部門においては、成功した技術情報だけでなく、実験ノート、プロセス記録、失敗データなども含め、価値ある情報として認識し、適切に秘密管理を行うことの重要性が再確認されます。

また、退職者による情報持ち出しは、企業にとって常にリスクとなります。本事例のように、完成品に直結しない情報であっても、それが営業秘密として保護される可能性があるため、退職時の情報管理、特にプロジェクト関連資料やデータの取り扱いについては、従業員に対して改めて注意喚起を行い、必要に応じて誓約書の締結などを行うことが有効と考えられます。学生の皆さんが将来、研究開発分野や機密性の高い情報を扱う部署に就職される際には、在職中に知り得た情報の取り扱いについて、会社の規則や法的な義務を十分に理解しておくことが非常に大切です。

まとめ

本稿では、研究開発の過程で生じた「失敗データ」や「試行錯誤情報」の営業秘密性が争点となった事例を解説しました。裁判所は、これらの情報がその後の研究開発の方向性修正や無駄な投資回避に役立つ場合、有用性を有すると判断しました。また、適切な秘密管理措置が講じられていれば、秘密管理性も認められ得ます。この事例は、営業秘密として保護される情報の範囲が、必ずしも完成した技術や成功事例に限られないことを示しており、企業における情報管理の重要性を改めて強調するものです。