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【事例解説】退職者の競業避止義務と営業秘密侵害 - どこからが不正行為か

Tags: 営業秘密, 不正競争防止法, 競業避止義務, 退職者, 裁判事例

はじめに

企業にとって、長年培ってきた技術情報や顧客情報、経営戦略といった営業秘密は重要な資産です。しかし、従業員が退職し、競業関係にある企業へ転職する際に、これらの情報が流出するリスクが常に存在します。この問題に対処するため、多くの企業は従業員との間で競業避止義務に関する契約や誓約を取り交わしています。

本記事では、退職者が競業避止義務を負っている場合と、不正競争防止法上の営業秘密侵害が問題となる場合の関係性に焦点を当て、具体的な事例を基に、どのような行為が法的に問題となり得るのかを解説します。退職を検討している方、退職者を受け入れる企業、そして営業秘密の保護を考える企業経営者や法務担当者にとって、本記事が理解を深める一助となれば幸いです。

事案の経緯

ある製造業A社で、長年技術開発に携わっていたX氏が退職し、同種の事業を展開する競業他社B社に転職しました。A社はX氏と、退職後一定期間、A社の事業と競業する事業を行わない旨の競業避止義務に関する誓約書を締結していました。

転職後、B社がA社の製品と非常に類似した新製品を発表しました。A社は、X氏がA社在籍中に知り得た技術情報やノウハウをB社に開示・利用させたと疑い、X氏とB社に対し、競業避止義務違反および営業秘密侵害を主張して訴訟を提起しました。

A社が問題とした情報には、製品の製造プロセスにおける特定の温度・圧力設定パラメータや、特定の原材料の配合比率、さらには開発中の試作品に関する詳細なデータなどが含まれていました。一方、X氏側は、問題とされた情報はA社で得た一般的な技術的知識や自身の経験に基づくものであり、競業避止義務の範囲を超えるものではなく、また不正競争防止法上の営業秘密には当たらない、あるいは不正使用は行っていないと反論しました。

法的な争点

本事例における法的な争点は多岐にわたりますが、主に以下の点が中心となります。

  1. 問題となった情報が「営業秘密」に該当するか: 不正競争防止法において営業秘密として保護されるためには、「秘密管理性」「有用性」「非公知性」の3つの要件を満たす必要があります。
    • 秘密管理性: A社が問題の情報について、アクセス制限を設けたり、秘密である旨を明示したりするなどの管理措置を講じていたか。
    • 有用性: 問題の情報が、客観的にみてA社の事業活動に役立つものか。開発中の情報や失敗データも有用性が認められる場合があります。
    • 非公知性: 問題の情報が、一般に知られていない、または容易に入手できない情報か。X氏の個人的な知識・経験の範囲を超えるものか。
  2. 競業避止義務契約(特約)の有効性とその範囲: X氏とA社との間の競業避止義務に関する誓約が、公序良俗に反せず有効であるか。また、その有効性が認められる場合、期間、地域、職種といった制限の範囲が適切であるか。競業避止義務は、憲法で保障される職業選択の自由に一定の制約を課すため、裁判所は特約の有効性を厳格に判断する傾向にあります。特に、退職後の競業避止を義務付ける場合、労働者への代償措置(手当の支給など)の有無も考慮されることがあります。
  3. 競業避止義務違反と営業秘密侵害の関係性: 競業避止義務違反があった場合、それが直ちに営業秘密侵害に当たるわけではありません。競業避止義務は、広く競業行為自体を制限する義務であり、営業秘密侵害は、営業秘密という特定の情報を不正に取得、使用、開示する行為です。ただし、営業秘密を不正に使用する行為は、多くの場合、競業避止義務にも違反することになります。本事例では、X氏の行為が、有効な競業避止義務に違反するとともに、A社の営業秘密を不正に使用・開示した行為に該当するかが争点となります。
  4. 「不正の目的」の有無: 不正競争防止法上の営業秘密侵害行為(取得、使用、開示等)は、「不正の利益を得る目的」または「営業秘密保有者に損害を加える目的」(「不正の目的」)をもって行われた場合に成立します。X氏がA社の情報をB社の事業に利用した行為が、この「不正の目的」に基づいていたかどうかも争点となります。

関連法規の解説

本事例に関連する主な法規は以下の通りです。

裁判所の判断

本事例に類似する裁判例では、裁判所は以下のような観点から判断を行う傾向があります。

まず、X氏とA社間の競業避止義務に関する誓約の有効性について検討します。誓約の内容が、期間、地域、職種といった制限を欠いていたり、退職者の職業選択の自由を過度に制約するほど広範にわたる場合は、公序良俗に反し無効と判断されることがあります。有効性が認められる場合でも、その制限の範囲は限定的に解釈されることが多いです。

次に、A社が営業秘密として主張する情報が、不正競争防止法上の要件(秘密管理性、有用性、非公知性)を満たすか否かを詳細に検討します。 * 秘密管理性については、情報が記録された媒体へのアクセス制限(パスワード設定、保管場所の限定)、社内規程での秘密保持義務の明記、情報自体への秘密表示(「マル秘」表示など)といった具体的な措置がどの程度講じられていたかが評価されます。 * 有用性については、現在の事業だけでなく、将来の事業活動にとって役立つ情報(開発中の情報、失敗データなど)も含まれるか判断されます。 * 非公知性については、その情報が業界内で公然と知られているか、あるいは競業他社が独自に開発・入手することが容易であるかなどが検討されます。特に、退職者の頭の中にある「個人的な知識・経験」と、会社の管理する「営業秘密」の境界線が重要な判断ポイントとなります。一般的な技術的知見や、長年の経験を通じて体得されたスキルは、原則として個人のものとされ、営業秘密とは区別されます。

裁判所は、問題となった情報の一部については営業秘密に該当すると判断しつつも、別の一部については秘密管理性が不十分である、あるいはX氏の個人的な知識・経験の範囲内であるとして営業秘密性を否定するといった判断を示すことがあります。

そして、X氏の行為が営業秘密の「不正使用」に当たるか否かが判断されます。B社での具体的な業務内容、利用したとされる情報の性質、A社における秘密管理の状況などを総合的に考慮し、その利用がA社の営業秘密を不正に利用する行為にあたるかどうかが検討されます。競業避止義務違反が認められたとしても、営業秘密の不正使用までは認められない、というケースも存在します。

最終的に、裁判所は営業秘密侵害の成否を判断し、侵害が認められた場合は差止請求や損害賠償請求について判断を下します。

事例からの示唆・学び

本事例から、企業と個人の双方が学ぶべき重要な示唆があります。

企業側は、営業秘密を保護するために、以下の点に留意する必要があります。 * 秘密管理の徹底: 従業員が容易にアクセスできる状態にある情報は、秘密管理性が否定されるリスクが高まります。重要な情報には物理的・技術的なアクセス制限を設け、秘密である旨を明確に表示するなどの対策を講じることが不可欠です。 * 競業避止義務特約の適切な設計: 退職後の競業避止義務を定める場合、その期間、地域、職種といった制限を必要最小限かつ合理的な範囲に留めること、可能な場合は代償措置を設けることが、特約の有効性を高める上で重要です。過度に広範な特約は無効とされるリスクがあります。 * 退職時の手続き: 退職者から会社の情報(書類、データ等)を適切に返還させる手続きを確立し、秘密保持義務を再確認させることが重要です。

退職を検討している個人や、転職を考えている学生の皆さんは、以下の点を認識しておく必要があります。 * 前職情報の取り扱い: 前職で得た情報のうち、一般的な知識や経験、公開されている情報以外の、具体的なデータ、ノウハウ、顧客情報などは、営業秘密に該当する可能性があります。これらの情報を無断で持ち出したり、転職先で利用したりする行為は、不正競争防止法違反となるリスクがあります。個人のスキルアップと営業秘密の境界線を意識し、曖昧な場合は専門家に相談することが賢明です。 * 競業避止義務の確認: 就業規則や雇用契約、入社時に締結した誓約書等に競業避止義務に関する定めがないか、事前に確認しておくことが重要です。

法学部や経営学部の学生にとっては、本事例は不正競争防止法における営業秘密の要件や侵害行為の理解に加え、労働法における競業避止義務といった、複数の法分野が関連する実践的な問題として学ぶ良い機会となります。企業活動において、法的なリスクをどのように管理し、知的財産を保護していくかという視点を持つことが重要です。

まとめ

退職者が競業他社へ転職する際に発生する営業秘密に関するトラブルは、競業避止義務契約の有効性と、持ち出された情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当するかという二つの主要な論点が絡み合います。裁判所はこれらの点を厳格に判断し、情報の秘密管理性、有用性、非公知性、そして競業避止義務の合理的な範囲などを総合的に考慮して、不正行為の有無を判断します。

企業は、重要な情報に対する秘密管理措置を徹底し、競業避止義務に関する定めを適切に運用することが不可欠です。一方、個人は、前職の情報の取り扱いについて十分な注意を払い、法的なリスクを理解しておく必要があります。本事例を通じて、営業秘密保護と個人の職業選択の自由のバランスの難しさ、そして情報管理の重要性をご理解いただけたことと思います。