【事例解説】退職技術者による開発情報持ち出し - 「非公知性」が争点となった不正競争訴訟
導入
企業の競争優位性の源泉となる技術情報やノウハウは、営業秘密として保護されるべき重要な資産です。特に、技術開発に深く関わった従業員が退職する際に、これらの情報が外部に流出するトラブルは後を絶ちません。このようなケースでは、流出した情報が法的に保護される「営業秘密」に該当するのか、そして持ち出しや使用行為が不正競争にあたるのかが争点となります。
本記事では、退職した元従業員による技術情報持ち出しを巡る裁判事例を取り上げ、特に不正競争防止法における「営業秘密」の要件の一つである「非公知性(一般に入手不可能であること)」がどのように判断されたかに焦点を当てて解説します。この事例を通じて、営業秘密、特に技術情報の保護に関する理解を深めることを目的とします。
事案の経緯
本件は、電子部品製造業を営むX社と、同社を退職した元従業員Y氏、およびY氏が転職した競合会社Z社の間で発生したトラブルに関する事例です。
X社は、特定の高性能電子部品の開発において独自の技術ノウハウを有しており、特に製品の性能を左右する製造プロセスにおける詳細なパラメータや、部品設計に関する精緻なデータ、顧客ごとのカスタマイズ情報などを厳格に管理していました。Y氏はX社においてこの高性能電子部品の開発部門の責任者であり、これらの極めて機密性の高い情報にアクセス可能な立場にありました。
Y氏はX社を退職し、同業他社であるZ社に転職しました。その後、X社は、Y氏が退職時にX社の同意を得ることなく、上記のような開発中の製品に関する詳細な設計データや製造パラメータ、顧客リストを含む大量の電子データを外部記憶媒体に複製し、持ち出していた事実を把握しました。X社は、これらの情報がX社の営業秘密にあたり、Y氏の行為は不正取得に、Z社によるこれらの情報の使用は不正使用にあたるとして、不正競争防止法に基づき、Y氏とZ社に対して情報の使用差止めおよび損害賠償を求める訴訟を提起しました。
法的な争点
この事案における主要な法的な争点は、以下の2点でした。
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Y氏が持ち出した情報が、不正競争防止法第2条第1項第4号に定める「営業秘密」に該当するか? 「営業秘密」として保護されるためには、以下の3つの要件(いわゆる「営業秘密の3要件」)を満たす必要があります。
- 秘密管理性: 情報が秘密として管理されていること。
- 有用性: 情報が事業活動に有用であること。
- 非公知性: 情報が公然と知られていないこと。
本件では、特に持ち出された技術情報が「非公知性」を満たすかどうかが重要な争点となりました。X社は、これらの情報が独自のノウハウに基づくものであり、業界内で一般に入手不可能であると主張しました。一方、Y氏およびZ社は、これらの情報は既存の技術文献や公開されている情報を組み合わせることで容易に得られるものであり、「非公知性」を欠くと反論しました。また、顧客リストについても、公開情報や営業活動を通じて容易に知り得る情報であるかどうかが問題となりました。
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Y氏の情報持ち出し行為が不正競争防止法第2条第1項第7号に定める「不正取得」に、Z社による情報利用行為が同項第8号に定める「不正使用」に該当するか? Y氏が会社の許可なくデータを複製して持ち出した行為が、営業秘密を不正な手段(例えば、窃盗、詐欺、脅迫、または管理侵害など)により取得した「不正取得」にあたるか、そしてZ社がY氏から提供された情報を、それが不正に取得されたものであることを知って(または知ることができたのに)事業のために使用したことが「不正使用」にあたるかが争われました。
関連法規の解説
本件で中心となるのは、不正競争防止法です。特に以下の条文が関連します。
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第2条第1項第4号(営業秘密の定義): この号は、「営業秘密」を「秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの」と定義しています。この定義が、上記「営業秘密の3要件」の根拠となります。
- 「秘密として管理されている」とは、情報にアクセスできる者を制限したり、秘密である旨を表示したりするなど、企業が秘密として扱う意思が明確であり、かつそれが客観的に認識できるよう措置が講じられていることを指します(秘密管理性)。
- 「事業活動に有用な」とは、例えば、コスト削減、効率向上、製品性能の向上、新規顧客獲得などに役立つ情報を指します(有用性)。開発中の技術情報や顧客リストもこれに該当し得ます。
- 「公然と知られていない」とは、一般社会やその情報分野の専門家の間において、秘密として入手することができない状態にあることを指します(非公知性)。例えば、公開された特許情報、市販されている技術文献、インターネットで容易に検索できる情報などは、原則として非公知性を欠くとされます。しかし、個々の情報は公知でも、その特定の組み合わせや詳細なパラメータが未公開である場合は、全体として非公知性が認められることがあります。
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第2条第1項第7号(営業秘密の不正取得): この号は、営業秘密を「窃盗、詐欺、強迫その他の不正の手段により取得する行為」を不正競争の一つと定めています。また、不正の手段により取得された営業秘密であること(またはそれが疑われること)を知って、もしくは知ることができたにもかかわらず取得する行為も含まれます。
- 第2条第1項第8号(不正取得された営業秘密の使用等): この号は、不正取得された営業秘密を「事業のために使用し、又は開示する行為」を不正競争の一つと定めています。
裁判所の判断
裁判所は、X社が持ち出しを主張した情報について、まず営業秘密の3要件を満たすかを検討しました。
- 秘密管理性: X社が開発データや顧客リストへのアクセス権限を特定の従業員に限定し、電子データにパスワードを設定したり、物理的な資料を施錠されたキャビネットに保管したりするなど、秘密として管理する措置を講じていたことを認めました。
- 有用性: 開発中の製品に関する詳細な技術データや製造パラメータ、顧客リストは、X社の事業において製品開発や販売に不可欠であり、競争上優位性を保つために有用であると認めました。
- 非公知性: ここが最も重要な判断となりました。裁判所は、持ち出された技術情報に含まれる個々の要素技術自体は公知である部分があることを認めつつも、X社独自の製造プロセスにおける特定の組み合わせや詳細なパラメータは、公開情報や一般的な技術文献からは容易に知り得ないものであり、これらの情報全体として「公然と知られていない」状態にある、すなわち「非公知性」を満たすと判断しました。顧客リストについても、単なる公開されている企業情報ではなく、X社独自の取引実績や担当者情報、過去の商談内容など、営業活動を通じて蓄積された詳細な情報が含まれており、これも一般に入手不可能であるとして「非公知性」を認めました。
これらの判断に基づき、裁判所は、持ち出された情報がX社の「営業秘密」に該当すると結論付けました。
次に、Y氏とZ社の行為について検討しました。
- 不正取得・不正使用: Y氏がX社の同意なく、自己の権限を逸脱してデータを複製し持ち出した行為は、不正な手段による営業秘密の取得であると判断しました。また、Z社が、Y氏から提供された情報がX社の営業秘密であり、不正に取得されたものであることを認識しながら(または認識できたにもかかわらず)、これを自社の事業活動に利用した行為は、不正競争防止法上の「不正使用」にあたると判断しました。
以上の理由から、裁判所はX社の主張を認め、Y氏およびZ社に対して、持ち出した営業秘密の使用差止めおよびX社が被った損害の一部または全部の賠償を命じる判決を下しました(判決の内容は事案によって異なりますが、差止めや損害賠償が認められるのが一般的です)。
事例からの示唆・学び
本事例から、営業秘密、特に技術情報や顧客リストに関する保護について、いくつかの重要な示唆を得ることができます。
- 「非公知性」の判断の複雑さ: 技術情報の場合、個々の要素技術が公知であったとしても、その特定の組み合わせや詳細なパラメータ、製造プロセスに関する具体的なノウハウなどが秘匿されていれば、全体として非公知性が認められる可能性があることを示しています。単に「公開されていない」というだけでなく、一般の人がその情報を容易に知ることができない状態にあるかどうかが重要です。
- 技術情報と顧客情報の保護: 高度な技術情報だけでなく、企業が独自に収集・蓄積した顧客に関する詳細な情報も、適切に管理されていれば営業秘密として保護され得ることが分かります。
- 退職者による情報持ち出しのリスク: 従業員、特に機密情報にアクセス可能な立場の従業員が退職する際には、情報漏洩のリスクが非常に高まります。企業は、退職者に対する情報持ち出し防止策(例えば、退職時の情報返還手続き、アクセス権限の迅速な削除、秘密保持義務の確認など)を徹底する必要があります。
- 不正競争防止法の役割: 不正競争防止法は、営業秘密の不正取得や不正使用を差し止め、損害賠償を求める強力な手段を提供します。しかし、法的な保護を得るためには、情報が明確に「営業秘密」の3要件を満たしている必要があります。
- 学生の学びへの関連: 法学部の学生にとっては、不正競争防止法における「営業秘密」の定義、特に「非公知性」という要件が具体的な事例でどのように適用されるかを理解する上で参考になります。経営学部の学生にとっては、企業が自社の競争優位性を守るために、技術情報や顧客情報をどのように管理し、情報漏洩のリスクにどう対応すべきかを考える上で重要な示唆を与えます。将来、企業で働く際に、どのような情報が営業秘密にあたる可能性があるのか、また、自身の情報管理の責任についても認識しておくことが求められます。
まとめ
本事例は、退職した元従業員による技術情報および顧客情報の持ち出しを巡り、「非公知性」を中心に営業秘密の成立要件が争われたケースです。裁判所は、個々の情報が公知であっても、その特定の組み合わせや詳細が容易に入手できない場合は非公知性を認め、持ち出し行為を不正取得、その利用を不正使用と判断しました。
この事例から、企業にとっては、自社の重要な情報を営業秘密として適切に管理することの重要性が、従業員にとっては、在職中および退職後の秘密保持義務を理解し、企業の情報を不正に持ち出したり使用したりしないことの重要性が再確認できます。営業秘密を巡るトラブルを防ぐためには、明確な社内規程の整備、従業員への周知徹底、そして物理的・技術的な情報管理対策が不可欠となります。